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研究会・シンポジウム



アメリカ研究における視覚資料の可能性
ローゼンツヴァイク研究セミナー参加記
荒木 純子

 1997 年6 月4 日、アメリカ研究資料センター会議室において、ヴァージニア州ジョージ・メイソン大学のロイ・ローゼンツヴァイク教授による二つの講演が行われた。講演の題目は「セントラルパークの社会史(The Park and the City:Central Park and its Publics)」と「CD‐ ROM デモンストレーション(Digitizing the Past:American History on CD‐ ROM)」で、時間は教授の口頭発表と質疑応答を含めてそれぞれ2 時間程度、参加者は20 名を越える多様なバックグラウンドを持つ研究者であった。
 「セントラルパークの社会史」は、これまで風景デザインの観点から研究されてきたセントラルパークの歴史を、政治、経済、文化が絡まりあったものとして捉え直す試みであった。公園の「公」の二つの意味、「公共機関による運営」と「一般への公開」に注目し、前者から生まれる政治的、経済的要素と後者からの文化的要素を取りあげつつ、設立当初からのセントラルパークの変遷の分析がなされた。1850 年代にフレデリック・ロー・オルムステッドの「田園で人々を教化する」という高い理念のもとで都会の中心に設計されたセントラルパークは、1860 年代に入り政策と都市を構成する人々の変化に伴って大衆性を高め、1870 年から1914 年の間には訪れる人々により興奮が渦巻き利益がもたらされる場所となった。その後、1970 年代の市の財政危機で運営が私設の管理機関に移されて以来、現在のような大きな財産的価値が付与される場所となる。教授はその時代時代の絵や写真を多数スライドで映しながら、この過程を視覚的にもわかりやすく実証した。発表後、環境問題、大衆文化、美術史などの専門家から質問が出て、活発な議論が交わされた。
 「CD‐ ROM デモンストレーション」は、教授自身が作成に携わったアメリカ史教育用CD‐ ROM 、"Who Built America?"の実演と並行して行われ、電子化された一次史料という新しいメディアを通してのアメリカ史教育の可能性が示された。電子メディアの利点――膨大な量の情報が収められる、目だけではなく耳からの情報もあわせ歴史を「体験」できる、各利用者の進度で学習できる――を教授は指摘し、それらの史料がふつうのアメリカ人に「声」を与えることで、過去をより深く理解し、より多彩に描くことができるという点を強調した。参加者はそのCD‐ ROM(アメリカ史に関わる5000 ページ分の本、700枚の絵、60 の図表、4 時間半の音声、45 分のフィルムを収納)と新しいメディアの可能性に圧倒され、実際にアメリカ史教育に携わる人だけでなく、熱心な学部1 、2 年生やNHK の関係者、情報処理関係者などからも数々の質問があり、会議室全体が熱気に包まれていた。
 ローゼンツヴァイク教授の二つの研究講演は、このようにともに視覚的聴覚的資料を用いた「新しい」ものであった。聴衆からの積極的な参加が多く、それに教授の人柄が加わり、たいへん和やかで充実した研究会となった。ただし、日本の現状の設備では、まだ教授の提唱するような研究・教育が生かせないのは、とても残念なことに思われる。
(あらき じゅんこ・ハーヴァード大学院)


アメリカ宗教のメインストリームとモルモン教
シップス研究セミナー
橋川 健竜

 1997 年度第3 回アメリカ研究セミナーは6月5 日(木)、主著『モルモニズム』で知られる、インディアナ大学名誉教授ヤン・シップス氏を迎えた。講演「モルモニズムとアメリカ宗教のメインストリーム」で、シップス教授は、合衆国憲法の第1 修正条項で政教分離を掲げたアメリカが、なぜ1 9 世紀に国家をあげてモルモン教を攻撃したのかを問うた。モルモン教は旗揚げ当初には攻撃されなかった。その教義が、宗教・社会生活の規範に関する社会の認識と次第に相容れなくなり、攻撃されるにいたったのである。
 団体としてのモルモン教は、教祖ジョセフ・スミスが『モルモン経』を翻訳、出版し、自らを大背教いらい再建されていなかった真の教会と神権を回復するキリスト教会である(第一の回復)、と主張した1830 年に出現する。この時点では、モルモン教はキャンベル派やその他の自称正統キリスト教集団と同じ扱いを受けた。続いてスミスらは、モルモン教徒の体にはイスラエルの民の血が流れていると主張、自らを神の選民、非信徒を異邦人と位置づけ(第二の回復)、独自の自己・他者認識を打ち出す。さらに「全てのものの回復」(第三の回復)では、一夫多妻制が是認され、これはモルモン信徒を独自のエスニック集団にまとめる上で大きな役割を果たした。こうした動きが見られる一方で、アメリカ社会一般では、18 世紀の北米植民地を貫いていた家父長的な社会構造が独立革命期から19 世紀前半にかけて攻撃され、崩壊しつつあった。この状況下で、モルモン教の教義の発展は、家父長制を復活させる試みとも見えた。社会はモルモン教徒を「他者」と位置づけ、結果としてスミスは殺害される。その後内部分裂を経て、ブリガム・ヤングをいだく一派(末日聖徒イエス・キリスト教会)はユタへと移住し、第三の回復を拒否する少数派は復興末日聖徒(RLDS )と名のり、ミズーリに残留した。
 出席者からは、モルモン教とキリスト教の教義、特にピューリタニズムの選民思想との相違、またエスニック集団としてのモルモン信徒の凝集力、その時期ごとの変遷、などの質問があった。シップス教授の回答の後、司会をつとめた高山真知子教授(江戸川大学)とシップス教授から、アメリカにおけるモルモン教研究の盛況ぶりのレポートと、雑誌『宗教とアメリカ文化』の紹介があった。とかくユタへの移住、ソルトレイク・シティ建設、そして一夫多妻制が強調されるモルモン教を、最初から異端と切り捨てず、その初期の教義と社会一般の認識変化との応酬の中に置くという論法は、基礎的でありながら新鮮で、宗教思想研究の醍醐味を味わえるものであった。休憩もとらずに講演と質疑に応じて下さったシップス教授に感謝の意を表したい。
(はしかわ けんりゅう・コロンビア大学院)


縫い合わされた記憶:カルチュラルスタディーズそしてアート・ヒストリーにおけるキルト
ターナー研究セミナー
江崎 聡子

 開拓時代以来、主に女性達によって縫い上げられてきた手工芸品であるキルトは、日常生活の実用品、物であると同時に、芸術作品としての美しさを持っている。
 近年、カルチュラル・スタディーズにおいては、人間の手によって生産された物に着目し、その物のある特定の時代と場所における生産様式や消費と流通の構造を明らかにすることを通じて、最終的に当時の社会的、文化的状況の考察へと到達するという作業がしばしば行われてきた。いわば、従来の学問的研究においては「小さな」あるいは「周縁的」なものとしてしばしば看過されてきた対象の研究の蓄積によって、「大きな」「中心的な」物語の再解釈が試みられてきたと言えるだろう。
 このようなカルチュラル・スタディーズの動向に少なからず影響をうけた、フェミニズムの美術史家グリゼルダ・ポロックは、その著Old Mistresses:Women, Art and Ideology(1981, London )において、女性によって生産された手工芸品の芸術作品としての再評価をめぐる議論の一例としてアメリカン・キルトを論じている。ポロックはキルト制作や受容のもつ共同体における私的、社会的、政治的、宗教的機能を指摘し、キルトはいわゆるハイ・アートの制作、受容とはことなったコンテクストにおいて論じられなければならないと考えている。キルトは女性の共同作業によって作り出され、実用品として多くの人に享受され、かつそこには芸術作品としての美しさが備わっているというのだ。ポロックは、キルトを単なる女の手工芸品として軽視することは、あるいはまた、もっぱらそのデザインの抽象性に着目して、従来のハイ・アートの枠組みに強引に組み入れて評価することは、女の歴史、女の芸術作品、女の仕事を抹殺するに等しいと忠告している。キルトのみならず女性芸術家達の作品を評価するためには、男性中心主義的な構造をもつ従来の美術史制度やその言説とはことなる新たなシステムを導入しなけれならないと考えている。美術史の分野においても、従来は芸術作品としてはみなされていなかったような「小さな」対象の研究から、「大きな」物語への挑戦が始まっているのである。
 さて、現在、カリフォルニア大学デイヴィス校のアフリカン・アメリカン・スタディーズで教鞭をとるパトリシア・ターナー教授による今回の講演は、主に十九世紀後半以降のアフリカン・アメリカンによるキルトをテーマとしたものとなった。ターナー教授はスライドを豊富に駆使し、一つ一つの作品を丁寧に解説しつつ、また同時に、キルト制作の背後に見られるアフリカン・アメリカンをとりまく社会的、文化的状況に言及することも忘れることはなかった。とりわけ印象深いのは、これらのキルトに見られる非対称なインプロヴィゼイショナルなパターン模様とジャズとの関連性や、奴隷解放運動においてキルトやキルト共同制作の場が果たした機能についての指摘である。後者に関しては、アフリカン・アメリカンキルトのみならず、白人女性によるメイン・ストリーム・キルトの制作現場もまた、奴隷解放運動を支持する一つのコミュニティーとして機能していたとの指摘があった。また、キルトが奴隷解放後生計を立てることが困難になったアフリカン・アメリカン達の一収入源として、経済的な意味を持っていたとの説明もあった。
 キルトを語ることが、キルトが記憶する場所や時間、そしてそこに生きていた人々の思い出を、さらには歴史を新たに蘇らせることになるならば、そのようにキルトを語ることができるならば、カルチュラル・スタディーズやまたニュー・アート・ヒストリー的観点からも、キルト研究は非常に興味深いものとなるだろう。そして、そのような方向性や可能性を示唆した今回の講演は非常に意義深いものであったと言えるだろう。
(えざき さとこ・東京大院)


"Rights Consciousness and 'The Labor Question' "
リヒテンシュタイン研究会参加記
梅崎 透

 ニューディール期以降の数十年間を,一貫性をもった一つの時代としてとらえる見方がある。労働運動がある程度の成功をおさめたとほぼ同時に'labor question'が急速にその重要性を失ったのはなぜか。1930 年代には階級的不平等に焦点を当てていたリベラリズムが,1960 年代には人種的不平等へと焦点をうつしたのはなぜか。これら二つの問いはニューディール期以降の合州国史を把握するあたって中心的な課題の一つとなっている。1998 年10 月20 日にヴァージニア大学歴史学部のネルソン・リヒテンシュタイン氏がおこなった講演は,まさにこの課題に正面から取り組むものであった。
 リヒテンシュタイン氏はまず,20 世紀を特徴づけるもっともラディカルな立法として,1935年のワグナー法と,1964 年の公民権法をあげた。ワグナー法は,'labor question'への答えとして制定されたものであった。一般に'labor question'とは,単に労働と資本の関係を改善するのみでなく,搾取,社会的不平等など,民主的な社会関係への脅威を排除することを意図して用いられることばである。ワグナー法は労働者が自主管理に基づく団体交渉を通じて,労働環境だけでなく,社会全体のアジェンダに対して声を発する道筋を保証したのだった。ここに「産業民主主義」が具現されたのである。しかしながら,'labor question' は第二次世界大戦後,急速にその問題の重要性を失い,団体交渉という手段も徐々に衰退した。このことは産業民主主義がもはや役割を終えたことを示していた。リヒテンシュタイン氏はその原因として,産業民主主義が個人ではなく,組織化された組合集団を単位としていた点,そしてその対象から黒人や女性をはじめとする多くのマイノリティが除外されていた点をあげた。
 一方,1964 年の公民権法は,人種,性にかかわらず,個人を単位として,その市民としての権利を保障するものとして制定された。以後,さまざまな立法が個々人の権利を保護するものとしてなされてきた。リヒテンシュタイン氏は,ここにおいてアメリカのリベラリズムがその焦点を,集合行為(ここでは労働組合運動)から個人の権利保護へとシフトしたと指摘した。そしてその結果,ジェンダーによる差別等を含む,立法や行政の保護が及ばない新たな問題に対して,労働者が声をあげる手段を失い,その権利を守るシステムが形式主義に陥る恐れがあることを指摘した。さらに,権利侵害の解決にあたることができるのは国家機関のみであるが,その解決能力にも限界があることが指摘された。
 セミナーでは,報告者に対し,同大学のアイリーン・ボリス氏が女性史の立場からコメントし,議論を補った。また,フロアからはニューディール期以降の南部における労使関係についての質問などがなされ,活発に議論された。
 団体交渉を軸とする,いわゆる「ニューディール型労使関係」を合州国において唯一可能な労使関係と考え,その連続性を考察する研究は1980 年代の著しい労使関係の変化をうけて盛んに行われてきた。リヒテンシュタイン氏の報告は,自身も与するこの観点に,個人の権利意識の高揚というもう一つの流れに対する考察を加えることによって,リベラリズムそのもののシフトというダイナミズムをとらえた点におもしろさがあった。ただ,報告者が40 年代の労使関係を専門としているだけに,そのシフト過程への踏み込んだ言及が欲しいところであった。
 一般に,ニューディール期以降の団体交渉を軸とした労使関係を考察する議論に対しては,国家による労使関係への干渉の是非そのものを問うていないとの批判がある。また,団体交渉の消滅は決して社会運動の全般の消滅を意味しているわけでもない。むしろ職場以外の場では,他の集合行為との相互作用をともなって民主的な社会関係創出の努力が絶えず行われてきた。では,すべての個人の権利保護が国家の「解決能力」を超えるとき,集合行為は,いかなる形で職場の「正常さ」を問うことができるのか。ニューディール期以降の合州国おけるリベラリズムのシフトという大きな流れのなかで集合行為のあり方を問うリヒテンシュタイン氏の議論は,1960 年代の社会運動を歴史的に位置づけることを目指す自己の研究においても大変興味深いものであった。
(うめざき とおる・一橋大学院)


メルヴィル批評の現在
マロヴィッツ研究セミナー参加記
舌津智之

 1998 年10 月23 日、米国メルヴィル協会の前会長、サンフォード・マロヴィッツ教授をアメリカ研究資料センターに迎えて講演会が行われた。ハーマン・メルヴィルというアメリカ文学史上の巨人をめぐる講演とあって、(筆者を含め)学外からの飛び入り参加も数多く、会議室は満席となる盛況ぶりであった。メルヴィル研究は今、フォークナー研究とならび、多岐にわたるアメリカ文学研究の中でも、とりわけ日米の学術交流がめざましい分野である。マロヴィッツ教授は、日本のメルヴィル研究誌『スカイホーク』に寄稿した最初の海外研究者でもあり、越境する日米のメルヴィル批評をグローバルに見守ってこられた貴重な存在である。
 近年、アメリカ本国では、メルヴィルの新しい評伝が相次いで出版され、文学作品の背後にある伝記的・歴史的文脈の意味づけをめぐって種々の議論が交わされている。(これについては、『英語青年』1998 年12 月号に掲載された加藤雄二氏による書評を参照されたい。)マロヴィッツ教授の講演は、このような状況をふまえつつ、『タイピー』や『白鯨』を書いた青年メルヴィルではなく、『ビリー・バッド』を書いた晩年のメルヴィルに注目し、老作家の脳裏に去来したであろう個人的な記憶(息子の死、従兄弟の関わった海軍の反乱事件)や当時の彼の読書体験(バルザック、ショーペンハウアー、ウィリアム・ディーン・ハウエルズ、英国詩人ジェイムズ・トムソンなど)を手がかりに、ビリーとヴィア船長をめぐる寓話の実証的な解読を試みるものであった。この議論は、少なくとも潜在的に、老い(エイジング)とジェンダーの問題系をメルヴィル批評に導入するものであると同時に、通常ロマンティシズムの残照とみなされる『ビリー・バッド』をリアリズム/自然主義という同時代の文脈に置き直すという意味において非常に斬新な試みである。
 さらに議論を掘り下げるならば、そのような自然主義的決定論・宿命観とダーウィニズムの関係についても新たな様相が見えてくるだろう。『ビリー・バッド』と並ぶメルヴィル晩年の最重要作『クラレル』では、ダーウィンに一度ならず直接の言及があることは注目に値する。『白鯨』や「魔の島々」を執筆当時の若きメルヴィルが意識した進化論言説については、日本でも巽孝之氏の『恐竜のアメリカ』に詳しいが、年老いた詩人メルヴィルの目に映ったダーウィン像に光を当てるとき、信仰と(性)科学の狭間に揺れたロマンティック・リアリストの逆説的世界観がはじめて立体化するはずだ。
 ともあれ、マロヴィッツ教授の長いメルヴィル研究歴に裏打ちされた老練の洞察は、しかしながら高齢を全く感じさせない教授の溌剌とした語り口とあいまって、出席者に良質の刺激と新鮮な感銘を与えてくれたと思う。アメリカ研究と文学研究の実り多き交わりの場を今後とも切に望みたい。
(ぜっつ ともゆき・東京学芸大助教授)


社会的構築物としての「人種」
ヘルブリングセミナー参加記
藤永 康政

 去る1998 年11 月10 日、私は、アメリカ研究資料センター主催、ハワイ大学アメリカ研究科助教授のマーク・ヘルブリング氏の講演会に参加した。近年のアフリカ系アメリカ人研究では、カルチャラル・スタディーズやポスト・コロニアル・スタディーズの挑戦を受け、従来のように「黒人」と言う存在を所与のものとして扱うことに対する批判が繰り広げられている。その中で、"Recent Issues in African American Studies"と題された講演の中で、ヘルブリング氏が、現在のアフリカ系アメリカ人研究が直面する問題をいかなる切り口で整理づけするのか、私にはたいへん興味深いところであった。
 ヘルブリング氏の講演は、アフリカ系アメリカ人のヒストリオグラフィーを整理することから始まった。アフリカ系アメリカ人が直面している問題点は「ニグロとアメリカ人の両方」であること、と語ったW ・E ・B ・デュボイスの有名な一節を冒頭に引用しながら、ヘルブリング氏は、講演の目的がデュボイスが提起した問題点の(史的)変化であるとした。
 主題の「近年の諸問題」に関して、ヘルブリング氏は、その諸問題を四つのカテゴリーにわけて考えている。その一つは、奴隷の社会史研究であるJohn Blassingame のThe Slave Community 、言語学の側からのデコンストラクションを試みているHenry Louis Gates のThe Signifying Monkey であるとする。かつてのliberal scholarship では、奴隷制 度とはナチの強制収容所に例えられており、Blassingame のThe Slave Community というタイトル自体が、liberal scholarship に対する挑戦であるとヘルブリング氏は指摘した。また、ジェンダーを中心に据えてアフリカ系アメリカ人の文化を理解しようとする試みが二番目の問題点として指摘され、そこではGloria Naylor やToni Morrison 、bell hooksの業績が例として引き合いにだされた。さらに第三の問題点として、黒人のディアスポラ的アイデンティティ形成を問題としているPaul Gilory などの研究が上げられ、そこでは文化を隔て「境界」自体が問題にされていると紹介された。最後に問題点としてあげられたのが、黒人の文化を文化的にハイブリッドなものであるという視点からなされている研究であり、そこではGeorge Hutchinson やKeith Richberg の業績が例としてあげられた。
 近年の「諸問題」に対しては、網羅的に解説がなされ、講演参加者は複雑多岐を極めてきているアフリカ系アメリカ人研究の動向に対する理解を深めることができたと思われる。しかしながら、これら四つの諸問題は単に並列されるだけに終わってしまい、一体何が「諸問題」の核心にあるのかの説明がなされなかった点に私は不満を憶えた。もっとも講演の主題がIssues と複数形であることを考えれば、私の不満はないものねだりなのかも知れないが、少なくともヘルブリング氏自身が行っている研究の上で、四つの列挙された諸問題の中で、どれが深刻な問題提起を行っているのかは説明があってもよかったのではなかろうか。
 その講演後、質疑応答に入ったが、そこでの議論は「人種」というカテゴリーが社会的構築物でありなんら実態をもっていないことに対して、参加者の関心が集まった。そこで、アフリカ系アメリカ人研究など人種の研究を行っているものが今や共通の認識としている「人種」というカテゴリーの不確からしさに対して、一般の公衆は未だに人種というカテゴリーを疑おうとはしていないというギャップが指摘されたが、この問題はアフリカ系アメリカ人研究しているものにとって決して看過できない問題であると思われる。ヘルブリング氏は、母親がタイ人で父親がアフリカ系アメリカ人のタイガー・ウッズなどの存在を人種の虚偽性を表す例としてあげていたが、それでもおそらく多くの日本人はウッズのことを「黒人」として認識するだろう。ポスト・モダンと言われる状況の中で、「人種」に関する議論は精緻を極めてきているが、その成果を公衆といかに分かち合うかは、講演の中では、答らしきものが出てこなかったが、回避することができない問題であるだろう。
(ふじなが やすまさ・東京大院)





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