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研究会・シンポジウム



社会的構築物としての「人種」
ヘルブリングセミナー参加記
藤永 康政

 去る1998 年11 月10 日、私は、アメリカ研究資料センター主催、ハワイ大学アメリカ研究科助教授のマーク・ヘルブリング氏の講演会に参加した。近年のアフリカ系アメリカ人研究では、カルチャラル・スタディーズやポスト・コロニアル・スタディーズの挑戦を受け、従来のように「黒人」と言う存在を所与のものとして扱うことに対する批判が繰り広げられている。その中で、"Recent Issues in African American Studies"と題された講演の中で、ヘルブリング氏が、現在のアフリカ系アメリカ人研究が直面する問題をいかなる切り口で整理づけするのか、私にはたいへん興味深いところであった。

 ヘルブリング氏の講演は、アフリカ系アメリカ人のヒストリオグラフィーを整理することから始まった。アフリカ系アメリカ人が直面している問題点は「ニグロとアメリカ人の両方」であること、と語ったW ・E ・B ・デュボイスの有名な一節を冒頭に引用しながら、ヘルブリング氏は、講演の目的がデュボイスが提起した問題点の(史的)変化であるとした。

 主題の「近年の諸問題」に関して、ヘルブリング氏は、その諸問題を四つのカテゴリーにわけて考えている。その一つは、奴隷の社会史研究であるJohn Blassingame のThe Slave Community 、言語学の側からのデコンストラクションを試みているHenry Louis Gates のThe Signifying Monkey であるとする。かつてのliberal scholarship では、奴隷制 度とはナチの強制収容所に例えられており、Blassingame のThe Slave Community というタイトル自体が、liberal scholarship に対する挑戦であるとヘルブリング氏は指摘した。また、ジェンダーを中心に据えてアフリカ系アメリカ人の文化を理解しようとする試みが二番目の問題点として指摘され、そこではGloria Naylor やToni Morrison 、bell hooksの業績が例として引き合いにだされた。さらに第三の問題点として、黒人のディアスポラ的アイデンティティ形成を問題としているPaul Gilory などの研究が上げられ、そこでは文化を隔て「境界」自体が問題にされていると紹介された。最後に問題点としてあげられたのが、黒人の文化を文化的にハイブリッドなものであるという視点からなされている研究であり、そこではGeorge Hutchinson やKeith Richberg の業績が例としてあげられた。

 近年の「諸問題」に対しては、網羅的に解説がなされ、講演参加者は複雑多岐を極めてきているアフリカ系アメリカ人研究の動向に対する理解を深めることができたと思われる。しかしながら、これら四つの諸問題は単に並列されるだけに終わってしまい、一体何が「諸問題」の核心にあるのかの説明がなされなかった点に私は不満を憶えた。もっとも講演の主題がIssues と複数形であることを考えれば、私の不満はないものねだりなのかも知れないが、少なくともヘルブリング氏自身が行っている研究の上で、四つの列挙された諸問題の中で、どれが深刻な問題提起を行っているのかは説明があってもよかったのではなかろうか。

 その講演後、質疑応答に入ったが、そこでの議論は「人種」というカテゴリーが社会的構築物でありなんら実態をもっていないことに対して、参加者の関心が集まった。そこで、アフリカ系アメリカ人研究など人種の研究を行っているものが今や共通の認識としている「人種」というカテゴリーの不確からしさに対して、一般の公衆は未だに人種というカテゴリーを疑おうとはしていないというギャップが指摘されたが、この問題はアフリカ系アメリカ人研究しているものにとって決して看過できない問題であると思われる。ヘルブリング氏は、母親がタイ人で父親がアフリカ系アメリカ人のタイガー・ウッズなどの存在を人種の虚偽性を表す例としてあげていたが、それでもおそらく多くの日本人はウッズのことを「黒人」として認識するだろう。ポスト・モダンと言われる状況の中で、「人種」に関する議論は精緻を極めてきているが、その成果を公衆といかに分かち合うかは、講演の中では、答らしきものが出てこなかったが、回避することができない問題であるだろう。

(ふじなが やすまさ・東京大院)



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