文部省科学研究費補助金「特定領域研究(B)」



総括班 1999年度活動概要・研究会議事録


1999年度活動概要

総括班では海外からの研究者を招き定期的に研究会を行う一方で、総括班メンバーの遠藤泰生氏による研究発表会も開催した。とりわけ、太平洋地域の文化研究の先駆者であるアリフ・ディルリック氏による研究会には、総括班以外からも多数の研究者が出席し、活発な討論が行われた。また、総括班では環太平洋協議会(Association of Pacific Rim Universities :通称APRU)に焦点をあて、環太平洋地域における多面的な学術・文化交流の実態調査を開始した。16 ヶ国から34 の大学が加盟しいるAPRU は、環太平洋地域の学術交流を促進する目的で設立された組織で、今後の環太平洋共同体の形成に重要な貢献を果たすと予想される。加盟大学における米国・アジア・太平洋研究の現状や他大学との交流状況などを調査するためにアンケートを送付した。また、総括班メンバーによる現地調査も実施し、より詳細な理解が得られるよう努力した(現地調査はAPRU 加盟大学に限らず、アジア太平洋研究を実践している世界各地の諸機関で行われた)。

1999年度研究会議事録
凡例:1)会議あるいは報告タイトル、2)報告者、3)日時、 4)場所、5)コメンテイターなど、6)会議の概要

第1回

1)East- West Center におけるアジア・太平洋研究の状況

2)吉原真里(ハワイ大学)

3)1999 年5 月24 日

4)東京大学大学院総合文化研究科

6)概要:

ポスト植民地主義やナショナリズム、自治権といった問題が世界秩序を大きく動かす現代、「アジア・太平洋」というカテゴリー自体が大きく問い直されている。「アジアと太平洋」を結ぶ「と」は「・」なのか「ー」なのか「/」なのか。その二地域の関係はどのような権力・言説関係にあるのか。太平洋の両側に位置するアメリカ合衆国そして日本という超大国は「太平洋」諸島そしてそこに暮らす人々のありかたをどのように作り変えているのか。「太平洋の交差点」としてのハワイは、そうした問題を投げかけながらアジア・太平洋地域の過去・現在そして将来を研究するのに格好の場である。East-West Center はハワイ大学とならんでそうした研究の中心的な役割を果たしてきた。

East-West Center (以下EWC と省略)は、ハワイが合衆国の一州となりその地域的・国際的な位置が新たな注目を浴びた1960 年に、アメリカ議会の決議によって、「アジア・太平洋・アメリカ合衆国間の理解と友好関係を深めるための国立教育機関」として創設された。当初はハワイ大学の一部として設立されたが、連邦の資金を受けた国立機関が州立大学の一部であるのはおかしいという見解から、1975 年に大学から独立した組織となった。様々な国際運動が盛んになり、また冷戦の展開によってアジアへの関心が高まった1960-70 年代がいわばEWC の最盛期であり、この時期EWC は約80-90 名の研究員が4-5 の研究部門にわかれて、アジアの研究者と共同してさまざまな研究活動を行っていた。この頃EWC にあてられた連邦予算は年々着実に増大し、90 年代初めの年間2400 万ドルまでになった。しかし、90 年代に共和党が連邦議会を支配するようになり、ハワイの民主党議員Daniel Inouye のペット・プロジェクトと眼をつけられたEWC の予算はいきなり半減、一時期は1000 万ドルまでに削られ、研究員・スタッフも半数までに減らされた。現在は、新しい所長Charles Morrison 氏の指揮下、運営と研究方向の再編成過程の途中である。

現在のEWC は、アジア・太平洋におけるcommunity building をスローガンに、単に研究活動を行うばかりでなく、率先的に地域における諸国間の関係を築き、強化していくことを目標としている。こうした指針のもと、(1) development of regional,sub-regional,and national institutions for governance; (2)economic growth and development that is equitable and sustainable; (3)management of regional and sub-regional problems and conflicts as well as critical issues of common concern at the national level という3 つの大きな目的を掲げ、以下9 つの研究プログラムが運営されている。(1) Asia Pacific Regional Order; (2) Nation Building and Governance; (3) Economic Change and International Cooperation; (4) Reconsidering National Economic Development Strategies; (5) Energy and Economic Development; (6) Transnational and Urban Air Pollution; (7) Ecosystems and Governance; (8) Population, Society, and Development; (9) Behavior and Health.このリストからも明らかなように、研究員が大幅に削減された現在のEWC における研究内容は、政策指向型、社会・人間科学系中心となっている。こうした中で、人文系の研究員は、EWC の教育部門を中心に活動を進めている。EWC の最も重要な機能と評判の奨学金プログラムは、EWC 設立当初から世界各地から数多くの学生をハワイ大学に送ってきたが、現在でも約110名の学生が、EWC 奨学生としてハワイ大学の各分野で学んでいる。EWC教育部門は、奨学金プログラムの他にも、特定のテーマや分野において短期間の集中研究交流を行うEast‐West Seminars や、ハワイ大学との共同企画で大学院生むけの学際的プログラムであるinternational cultural studies program など、幅広い活動を行っている。

EWC 内には、アジア・太平洋関係の27 ,000 部の書籍、1 ,000 部の定期刊行物などを集める研究情報センターがある。また、アジア・太平洋諸国の研究者との共同研究には積極的に関与しているので、研究部門のスタッフを通じて連携を図れば、ユニークで厚みのあるプロジェクトが遂行可能である。


第2回

1)近世日本における太平洋像の成長

2)遠藤泰生(東京大学)

3)1999 年7 月7 日

4)東京大学大学院総合文化研究科

6)概要:

アジア太平洋地域あるいは環太平洋地域が新たな経済圏として脚光を浴びるにつれ、太平洋とそれを取り囲む国々が現在にいたるまでその地域・海域といかなる関係を歴史的に築いてきたのかを多くの人々が問うようになった。1990 年代の合衆国においてアジアと合衆国との関係を専門とする政治学者や歴史学者が太平洋に焦点をあてたアメリカ史をさかんに綴り始めた背景にも、そうした知的、社会的ニーズがたしかに存在する。ただし、「太平洋」を核とする地域概念を共有するとはいえ、各国はそれぞれ固有の地域概念を有するのであり、「太平洋」そのものについてもそれがどの範囲を示し、いかなる可能性をそれぞれの国に持つのか、各国のあいだに統一した見解はまだ無いといって良い。したがってきたる21 世紀にアジア太平洋、あるいは環太平洋をひとつの地域概念としてアメリカやアジアの国々と我々が共有しようとするならば、その概念の依ってきたる経緯を今以上に深く理解しなければならないことは言うまでもない。

今回の報告はそうした問題関心のもと、近世日本おいて太平洋の知識がいかなる形で日本に蓄積され、どのように成長を遂げたかを、概観するものである。明朝中国に渡ったイタリア人宣教師マテオ・リッチが制作した世界地図「坤与万国全図」が17 世紀初頭の江戸に舶載され、日本人はそこに描かれた太平洋に関し、体系的な知識を始めて得ることができた。もっとも、当時の太平洋は日本にとってはまだ社会的意味の薄い、いわば水の砂漠であり、その証拠に、「銀島」「金島」などの想像上の島々がリッチの世界図における太平洋上には多く描かれていた。

太平洋の知識が科学的踏査にもとづく客観的なものに整理されるのは、イギリスのジェームズ・クックが18世紀のおわりに太平洋探検を繰り返して以後である。とくに、19 世紀の前半に入って合衆国を中心とした各国の船が鯨を求めて太平洋を縦横に走り回るようになると、この広大な海洋に関する知識が急速に西洋の国々に蓄積された。同じく19 世紀に入って西洋列強の「外圧」を受けるようになった鎖国下の日本にも、それらの知識は、地理学の輸入を通じて少しずつ、しかし確実に浸み渡っていった。たとえば、太平洋を一つの広大な水域と日本人に把握させるのに最大の力となったのは、1804 年に長崎に渡来したロシアのクルーゼンシュテルンが幕府通訳に献じた世界地図であったらしい。また、リッチの時代以来、中国の世界観にならって「大東洋」と江戸の知識人は呼び慣わしたその海を、西洋流の「太平洋」という名に呼び改めさせるのに大きな力となったのは、1853 年のペリー艦隊の浦賀来航であったと推測される。報告では、これらの日本人の太平洋観の変遷、うねりを、海外地理書、詩歌、古地図などを史料に概観した。

19 世紀後半以降、近代、現代の日本においては、未知の空間というより資源の横たわる征服すべき海域という社会的意味を太平洋は持ち始める。この地域概念が、各国の地域概念とどのように衝突、摩擦を繰り返し、現在にいたっているのか、あるいはまた、東南アジアを中心としたアジアの海洋概念のなかで日本の太平洋観はいかに相対化しうるのか、それらの問題を今後の調査の課題としたい。また、今回の報告で取り上げた「公式」の知識以外に、漂流民や漁民が「非公式」に蓄積し膨らませていた太平洋の海洋概念がどのように周辺地域にひろがっていたのかも、興味深い課題として残っている。それらを含めた太平洋の文化地理概念の歴史が今後、魅力ある調査分野として我々の前に広がっていることは誰の目にも明らかである。

参考文献:遠藤 泰生「「大東洋」から「太平洋」へ──太平洋をめぐる日米比較関係史へむけて」『比較文学研究』(63 号、1993)


第3回

1)太平洋イメージの歴史と現状

2)大庭三枝(東京大学)

3)1999 年7 月7 日

4)東京大学大学院総合文化研究科

6)概要:

大国間競争の行われるアリーナとして「太平洋」が着目され始めたのは19 世紀末頃である。第二次世界大戦を経て1960 年代、現実味を帯びてきた「大西洋共同体」に対抗して主に域内先進5 ヶ国からなる「太平洋」での協力構想が多く出され、その動きからPBEC やPAFTAD などが誕生した。またそのころ、「アジア太平洋」の名の下での地域協力構想も複数提唱された。これら新しい「太平洋」「アジア太平洋」は先進国間協調とそれによる発展途上国への援助を志向していた。またベトナム戦争を背景に冷戦構造を色濃く反映した「アジア太平洋」を体現しているASPAC が活動していたのもそのころである。その後南北問題が先鋭化する中、「太平洋」はアジアや南太平洋、中南米などの発展途上国をも包含するものとして再定義され、OPTAD や環太平洋連帯などその「太平洋」に立脚した様々な地域協力構想が出された。しかしその核はやはり先進国間協調とそれを前提とした発展途上国への対応であった。この「太平洋」を体現する組織として設立されたPECC は1980 年代中盤には中国を正式加盟させ、ソ連をオブザーバー参加させ、「太平洋」は南北のみならず東西をも包含する地域概念となった。一方1980 年代後半の日本を中心とする東アジア、東南アジア地域の経済的相互依存の急激な深化や経済発展を背景に、「水平的な経済協力、協議が必要となった諸国の集合」と再定義された「アジア太平洋」における地域協力構想が日本の通産省から提唱された。1989 年11 月に設立されたAPEC はその新しい「アジア太平洋」に立脚した地域機構である。


第4回

1)太平洋研究プログラム実態調査カリフォルニア地域の太平洋地域関連研究センターの特徴と研究動向について

2)片田さおり(南カリフォルニア大学国際関係学部)

3)1999 年7 月12 日

4)東京大学大学院大学院総合文化研究科

6)概要:

1. 序

カリフォルニアに在住していることと、自分の研究対象が環太平洋の国際政治経済学であるということで、カリフォルニア地域の太平洋地域関連研究センターの特徴と研究動向について、総括班の実態調査のお手伝いをさせていただいた。東大のアメリカ研究資料センターにて作成された太平洋地域関連研究センターのリストをもとに、こちらからの情報を加えて、カリフォルニア内8 箇所のセンターについて、資料収集、電話又は面接によるインタビューを、1999 年4 月から6 月にかけて実施した。

2. カリフォルニア地域の太平洋研究センターの特徴

カリフォルニアは米国の中でも、アジア太平洋に対する関心が非常に高い州である。その背景には、アジア諸国相手の輸出が州の輸出全体の40 %にも登るほど、同州がアジア太平洋諸国へ大きく経済を依存していることがある。近年のアジア経済危機においては、同州経済が打撃をうけたのも当然だった。

また、州の人口構成においても、アジア系およびラテンアメリカから移民の占める割合は昔から高い。カリフォルニアには、この二つのマイノリティ・グループに属する学生を足すと、学生全体の過半数を超えるという大学も少なくない。

さらには、エリート層(大学関係者を含める)に、東海岸エスタブリッシュメントに対抗する手段の一つとして、アジアとのつながりを模索する動きも強い。

そうした傾向のもと、カリフォルニアにある太平洋研究センターは、設立は古いものもあるが、その多くで活動が活発になったのは1980 年代の半ば以降。組織の活動、成り立ち、資金源などから分類すると、大きく分けて、以下の三種となる。

A )大学内にあり、基本的身分ははそれぞれの学問別に振り分けられた学部(つまり、経済学部など)に属しながら、興味がアジア太平洋地域に向いている教官らが学部の枠を超えて集まっている学際的センター。学問の枠を超えた、教官の意見交流が目的。センター専属の教官はほとんどいない。研究の方向性は、それぞれの教官の研究課題によるため、センターとしての強い方向性は打ち出せない。南カリフォルニア大のEast Asian Studies Center やスタンフォード大のAsia/PacificCenter などがこれに当てはまる。

B )一方、大学内にありながら、組織としては一つの学部として独立した本格的教育、研究センター。教官らも他の学部との掛け持ちではなく、センター専属。この分野を専攻する学部生、大学院生を受け入れている。カリフォルニア大学サンディエゴ校にあるIR /P (GraduateSchool of InternationalRelations &Pacific Studies )など。

A 、B に共通する点として、学生の人種・出身文化の構成により、研究の方向性または研究費の割り振りが影響されうる。

C )外交政策を組み立てる上で必要な調査、分析を目的とする独自の民間研究機関。研究の方向性を強く打ち出すことで、組織PR を狙う。経営者トップの意向が強く打ち出される傾向がある。カリフォルニアではRAND が有名。新しいところではPacific Council on International Policy など。

3 これからの指針にかえて

アジア、ラテンアメリカ系の多く住むカリフォルニアにおいてでさえ、アジア太平洋研究センターは発展期にあり、いまだに "Pacific Rim" または "Asia Pacific" の定義さえコンセンサスがないのが現状だ。しかし、西海岸との地の利を活かし、これから一層、アジアへの理解を深め、交流を広げようとの動きは強い。こうした動きの中心の一つとして、研究センターは重要な役割を果たすことが期待されている。また、近年のアジア経済危機をきっかけに、アジアについてもっと良く理解しなければならないという米国全体の反省のもとに、アジア太平洋に関する研究プロジェクトに以前より多くの研究費を振り分けるなどの努力もなされている。

最後に、これからセンターを分析する際には、センター内のアジア太平洋研究家たちだけではなく、その設立や運営に関わる人々の苦労話、これからの課題を中心にインタヴューをすると、親アジア派の意見を超えた米国一般研究者(又は経営者)のアジア観が見えてくるのではないだろうか。


第5回

1)"Bringing History Back In:of Diasporas, Hybridities, Places, and Histories"

2)アリフ・ディルリック(デューク大学)

3)2000 年1 月14 日

4)東京大学大学院大学院総合文化研究科

6)概要:

デューク大学教授のアリフ・ディルリック氏による講演会。ディルリック氏は中国の外に住む中国系の人々を例に挙げながら、「ダイアスポラ」と「ハイブリディティ」の概念の問題を論じた。

ダイアスポラは有用な概念であるが、同時に、ダイアスポリックな人々のあいだにある差異を曖昧にし、かれらを均一化しまう危険性がある。「中国系のダイアスポラ」という表現は、「中国的な特質」というものを自然な概念とし、かれらの間に存在する歴史的・地理的な差異を曖昧にさせてしまう。

同時に、「ハイブリディティ」という概念にも問題がある。なぜなら、それはある集団を抽象的に形容する一方で、その中にある不平等や搾取の構造を明示することをしないからだ。国際的に活躍するエリート集団が「ハイブリッド・アイデンティティ」を強調し過ぎるあまり、社会や国家の周縁に追いやられ本当に苦しむ人々の姿が見えにくくなっている。

「ダイアスポラ」や「ハイブリディティ」という抽象的な概念の理解は、具体的な個別の歴史や場所に基づいたものでなければならない。そうしなければ、「ダイアスポラ」によって歴史が単純化されすぎたり、「ハイブリディティ」によって未来へのビジョンがかえって制限されかねない。

本講演会は一般にも公開され、学内外から多くの研究者が出席した。ダイナミックで刺激的なプレゼンテーションの後、活発な質疑応答が行われた。